あろまちゃんぼうのよもやま話

うつ病、ハーブ、精油、その日の出来事について

癒し愛の出来事やミラクル

病室には私以外に4人の患者さんがいた。

一人は私のとなりにいた摂食障害と軽い精神病の若い奥さん。やってはいけないと言われているにも関わらず、シュガーカットとしょうゆを混ぜたものを隠れながらおいしいといいながらのんではといれで吐いていた。

母親にも旦那さんにも見捨てられ、入院してきた。なので、その二人がお見舞いに来るとうれしそうなのだが、帰ったあとは隠し持っていたカッターで手首を切り、トイレットペーパーを共有トイレで撒き散らしてねてるということをした。

ある日、私が病室で大黒摩季を歌っているといっしょに大声で歌いはじめた。歌詞は、家事を頑張ってるけどうまくいかないのを多めに見てよ、というものだった。それから毎日、歌い続けた。私も楽しかった。

そしたら、家族との面談にもおじけずかず、どうどうと病室にもどるようになり、リストカッティングもなくなり、変な飲み物ものまなくなった。

その後、退院して、手紙のやり取りをしたが、摂食障害自助グループには入り、今度は旦那さんが赤ちゃん返りして依存にくるしんだが、なんとか、子供に恵まれ、母親からも自立し、今はささやかな幸福を手にいれた。

音楽療法というのがあるが、それが彼女の回復のターニングポイントだった。

病室にはもう一人、摂食障害潔癖症の18歳の少女がいた。

毎日のようにがん患者のお父さんの世話をしたあとにお母さんが花を一輪持ってお見舞いに来ていた。

その花をコップに挿して、きれいな絵を描いていた。私もときおり、花を描いていたので、その描画に舌巻き、賞賛した。

でも手袋しないとドアノブもお箸も持てず、食欲もなかった。

なにか楽しいことしてあげられないかなと思い、バラ園に行くことを提案した。最初は渋った少女だったが、バラ見たさに負けて、私に連れられていった。

バラ園の途中で野性のミントの花を見つけた。さわるとミントの香りがするよていったがさわらないので私がさわって香りを鼻もとに送った。そして、私はいった。

「このミントはいつかさわってほしいと思ってるよ。いつまでもあなたのこと待ってるよ。」そういって、バラ園にいった。それだけなのだが、退院後、手紙の交流は続き、一年後、自宅でミントに囲まれてふっくらとした少女の写真が送られてきた。

その後、母親もがんでなくした彼女は親に見捨てられたという気持ちがつのってやくざの妻になったりしたが、寂しさは解消されず、また摂食障害にもどったが、その後、5匹のわんちゃんをもつ大家族の旦那さんに廻り合い、とうとうしあわせをつかんだ。

ミントを視ると今でもその少女のことを思い出す。

隣の部屋にいたキッチンドリンカーのおばさんは子供たちに包丁をひりあげたために旦那さんと離縁され、子供たちにも会えない寂しい日々を送っていた。子供の誕生日には手紙を送っていたがなしのつぶて。

そのため、ときおり、隠れてアルコールをのんでしまい、医師に怒られていた。

私は今は寂しいけどきっといつか寂しくない日がくるよといいつづけた。

退院の時、アルコールをのまない約束で手紙の交流をすることにした。それから、一ヶ月に一度かならず、飲んでませんとかいた手紙が送られてきた。そのたびに私は勇気づける手紙を送り返した。

そして、ある日、彼女が電話してきた。

「きいて、きいて、私に恋人ができたの、もう、おじいちゃんだけど、私のために飲むのやめてくれたのよ、ね、やさしいでしょ。」
それから、彼女は半同棲生活を送り始め、愛を育み、いつしか、アルコールを手にしなくなった。愛する人を見つけた彼女はいまは幸せだ。

他にも躁うつ病の子持ちの画家さんがいた。彼女の個展を見に行って励ました。絵を描いてれば治るよと。そしたら、本当に治った。とても、渋谷のど真ん中で半裸で演説していた人とは思えない。

もう一人眠り姫と呼ばれた女性がいた。過去に何度も男性にレイプされていたからなのか、忘れたいがために、ご飯も食べずに寝ていた。そっとしてあげた。彼女にとって眠りは最高の薬。

退院後、私に、幸せになる資格あるかしら?と何度も聞いてきたが、ある日、結婚できたの!と報告してくれた。その後ぷつりと音沙汰ないがどうなのだろう。

あともう一人、重い精神病を患っていた少女がいた。私がベリーの鉢に水やりしてるとやらせて、といって毎日いっしょに水やりした。優しい子だったが、退院後まもなく、彼女のお母さんからお手紙をいただいた。自殺したと。楽しかった思い出と共に涙が出た。精神病院は優しい時だった。

いろんなミラクルに遭遇したが、最後の少女のような顛末もあった。

患者さん同士で癒しあうことをピアサポートというが、まだ、インターネットがなかったあの頃は直接話し合うこと、やること、手紙のやり取り、電話といった交流が主体だった。
私もこうした出来事のなかで癒されていたのだ。